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過去の企画展一覧(第201回~第232回 )

更新日:2023年11月2日

第201回企画展~第232回企画展

企画展リーフレットと展示に関する資料を掲載しています。

第201回 古き良き湊町の面影伝える 懐かしい酒田の旧町名

16世紀に最上川南岸から移転し、本町通りを基点に最上川河口につくられた酒田の町は、海運・舟運の発展とともに大きくなりました。河岸八丁と呼ばれた新井田川沿いの町々、街道筋の宿場町として栄えた秋田町・伝馬町などの古い町名や小路の名前には、酒田湊繁栄の物語が刻まれています。

昭和40~42年(1965~67)にかけて実施された「新住居表示」により、市内中心部の町名が変更されてから50年。旧町名を知らない世代も多くなりましたが、柳小路、寺町、台町などの旧町名・小路名は今も耳にします。酒田の歴史を伝える文化として、これからも大切に伝えていきたいものです。

本企画展では、現存する絵図としては最も古い「明暦2年(1656)酒田町絵図」(酒田市指定文化財/酒田市立光丘文庫蔵)をはじめとした古絵図や地図を中心に、町名の由来と変遷、酒田の街並みの移り変りをたどる、江戸時代から昭和にかけてのさまざまな資料を紹介します。

第202回 酒田を訪れた人々―文人墨客から維新の志士まで―

寛文12(1672)年、河村瑞賢により西廻り航路が整備されると、最上川河口に位置する酒田は海運・舟運の拠点となり町は繁栄しました。

北前船は物とともに上方や江戸の文化を湊町に運び込み、松尾芭蕉をはじめとする文人墨客など、幾多の著名人も酒田へ足を運んでいます。町の人々もまた、彼らを手厚くもてなし交流を深めました。

来遊者たちは湊町の風景や食、そして人々に魅了され、多くの作品をこの地に遺し、酒田の文化発展に大きな影響を与えました。港近くの日和山公園には、酒田を訪れた文人墨客の作品を碑にした「文学の散歩道」が整備されています。

企画展では、文人墨客や維新の志士など「酒田を訪れた人々」の当地での様子、制作した作品、関わりを示す資料を紹介し、彼らの足跡をたどります。「あの人も酒田に来ていたのか!」という新たな発見の機会になれば幸いです。

本企画展の開催にあたり、貴重な資料を快くご提供くださいました関係機関、ならびにご協力を賜りました多くの方々に、心よりお礼申し上げます。

第203回 武士の時代 中世庄内のつわものたち

和銅5年(712年)に出羽国が創建され、現在の酒田市周辺は大和朝廷の支配地域となりました。中世期になり、律令政治が衰える中で力を付けたのが、地方豪族である“兵”(つわもの)です。武士と呼ばれた彼らは、時に協力し、時に衝突して領地を広げます。力の及ばなかった武士は、滅びるか、従うか、この2つの道を選ぶほかありませんでした。

庄内には、中世期から江戸期にかけて活躍した武将・武士たちの城跡や墓などが遺されており、子どもたちが楽しく遊ぶ公園が、実はかつての城跡という例もあります。しかし、争乱から約400年が経過した今、街に残る史跡を知る人は多くありません。

本企画展では、所蔵者のご協力のもと、当時の書状や武具類を展示し、庄内に住んだ武士たちの経歴や城跡、主要な争乱の流れ、酒井家統治に至るまでの歴史を紹介します。残された資料は少なく、空白となる部分もありますが、中世期庄内の風景を自由に頭に思い浮かべ、当時を生きた武士たちに思いを馳せていただきたいと思います。

第204回 絵と写真でつづる酒田

明治維新以降の近代化とともに、日本人の暮らしは変わり続けてきました。特に、昭和30年代後半から40年代にかけての高度経済成長期後の変化は著しいものがあります。それは都会に限ったことではなく、地方都市である酒田からも、原風景といえる景色はなくなりつつあります。

当館では平成29年8月、酒田工業高校(現酒田光陵高校)の教師だった故・五十嵐豊作氏が、明治・大正・昭和の鵜渡川原村(現在の亀ケ崎地区)の情景を描いた油絵を、ご遺族から寄贈いただきました。本企画展では「暮らし」をテーマに、五十嵐氏の作品をはじめ、当館が所蔵する古い写真などを展示し、活気にあふれた港、憩いの場でもあった最上川・新井田川、農村・漁村や飛島の懐かしい姿を振り返ります。

本企画展は、開館70周年を迎えた本間美術館との合同企画展にもなっています。

第205回 資料館のおひなさま 湊さかたの雛めぐり

寛文12年(1672)、河村瑞賢によって西廻り航路が整備されると、酒田は北前船の寄港地として栄え、町は大きく発展しました。酒田湊へは、全国各地から様々な品物が運び込まれており、そのひとつにお雛様もありました。酒田に運ばれたお雛様は、雛祭りの時期になると家々で飾られ、お雛様を見て回る「雛めぐり」が生まれました。この風習は現在の酒田雛街道に受け継がれ、春の風物詩になっています。昨年、北前船の文化を伝えるストーリーが日本遺産に認定され、湊さかたの「雛めぐり」も、この構成文化財のひとつになっています。

本企画展では、江戸や京都から運ばれ、旧家で大切に受け継がれてきたお雛様を一堂に展示しています。当館で一足早い春の訪れを感じていただければ幸いです。

第206回 開館40周年 酒田と資料館のあゆみ

酒田市立資料館は、昭和53年(1978)5月18日に開館し、今年で40周年を迎えます。

昭和51年(1976)に発生した酒田大火の被災地に、復興を記念して建てられ、郷土の歴史や文化を保存・伝承する施設としての役割を担ってきました。開館以来収集した品々は、郷土に深くかかわる歴史民俗資料や、貴重な美術・工芸品など、約45,000点に及びます。そのうちの多くが、市民の皆様からご寄贈いただいたものです。

本企画展では、大火からの復興、平成3年の庄内空港開港、平成4年のべにばな国体、平成17年の旧1市3町合併など、開館した昭和53年から現在までの、さまざまな出来事をご紹介しながら、40年間の酒田と資料館の歩みを振り返ります。また、当館を代表する収蔵品も併せて展示いたしました。資料館が見つめてきた酒田を、皆様の思い出と一緒にたどっていただければと思います。

第207回 酒田の明治時代 文明開化のおもいで

平成30年(2018)は、明治元年(1868)から150年目となる節目の年です。戊辰戦争敗北後の酒田は、新政府軍が政治の指揮を執る「酒田県」となり、のちに他県と合併し、現在の「山形県」が誕生します。酒田の町中には「ランプ」「人力車」「カメラ」などが続々と登場し、子どもたちは「学校」に通い、勉強をするようになりました。明治後期には「電話」「電気」が整備されます。いまでは当たり前のものでも、当時の人々にとっては見た事も無い最先端の技術・文化で、酒田の人々の生活に徐々に浸透していきました。

本企画展では、明治期の酒田で起きたさまざまな出来事を紹介し、いかに近代化してきたのかを解説します。色鮮やかな引き札や絵葉書、当時の風景・風俗を写した写真から、文明開化に湧いた当時のにぎわいを感じて頂ければと思います。

第208回 幕末酒田の異才 本間郡兵衛

本間郡兵衛は、本間家分家の本間新四郎家に生まれました。幼いころから才気煥発で、蘭学・英学を学び洋学者として活躍。勝海舟やジョン万次郎、榎本武揚ら名だたる人物と親交を結ぶ一方、最晩年の葛飾北斎に弟子入りし、浦賀で黒船をスケッチするなど、画才にも秀で、並外れた好奇心と行動力を持つ人でした。

その後、薩摩藩に藩校教師として招かれましたが、同藩が構想した日本初の株式会社の実現に向け奔走するさなか、元号が明治に代わる直前の慶応4年(1868)7月、数え年47歳の若さでこの世を去りました。

郡兵衛の子孫である本間利美氏はじめ、多くの関係者にご協力いただいた本企画展では、手紙や手記、画帳、薩摩藩時代の文書、洋書など、貴重な歴史資料でもある遺品を多数紹介し、非凡で人間味あふれる郡兵衛の魅力に迫ります。彼がその目で見て肌で感じた維新前夜の空気を感じていただければ幸いです。

第209回 没後100年 加藤雪窓―酒田人に愛された天才画家―

加藤雪窓は明治5年(1872)秋田に生まれ、幼いころから祖父と共に各地を遍歴し、明治22年(1889)から酒田に住んだ画家です。明治29年(1896)に有志の支援を得て上京し、中央画壇で活躍しましたが、およそ10年後に酒田に戻りました。

その後、大正7年(1918)に亡くなるまで絵を描き続け、旧知の文化人たちと交流を深めました。雪窓の絵は酒田人に愛され、市の指定文化財になっている「日枝神社大祭行列絵懸額」(下日枝神社蔵)、「林和靖放鶴図屏風」(個人蔵)をはじめ、たくさんの作品が市内に残っています。

平成30年は雪窓没後100年に当たることから、その作品の魅力を少しでも伝えることができればと思い、企画した展示です。ご子孫をはじめとする多くの方のご協力により、これまで公開されてこなかった作品や下絵、遺品などを紹介します。

第210回 おひなさまと晴れを彩る着物

平成8年から始まった酒田雛街道も、春を告げる風物詩として定着し、市民の皆様、観光で酒田を訪れた皆様に楽しんでいただいています。当館では平成22年の「第161回企画展 雛人形と桜花」より、本格的なお雛様の展示をスタートしました。その後、市民の皆様より多くのお雛様を寄贈いただき、年々展示は華やかになってきました。今年も当館所蔵の「橋本家のお雛様」、「田中家のお雛様」などの、江戸期から昭和戦前期に制作されたお雛様や、さまざまな雛道具を展示しています。

平成最後となる今回の展示では、晴れの日を彩った美しい着物を、お雛様と共に紹介します。展示している着物は、節句や結婚式などの祝いの場で使用され、お雛様同様、大切に保存されてきたものです。美しい花鳥柄や吉祥模様をご覧いただき、新たな時代が始まる春を感じていただければと思います。

第211回 最上川 氾濫と治水

山形県を流れる最上川は、「母なる川」として流域に暮らす人々にさまざまな恵みを与えてきた一方、江戸時代には7年に1回の割合で氾濫(洪水)を繰り返してきた「暴れ川」でした。河口港として発展し、周辺に庄内平野が広がる酒田は、河道を変え田畑を飲み込む大洪水に何度も見舞われてきました。

本企画展では、関係者並びに関係諸機関より協力いただき、江戸時代の洪水や治水工事について記された古文書や絵図、明治以降に酒田港の近代港湾化とともに進められた最上川河口改修工事、赤川新川開削に関する記録など、貴重な資料を紹介します。

近年、局地的豪雨による大規模な水害が全国各地で多発しています。山形県も昨年8月に豪雨に襲われ、酒田は大事に至りませんでしたが、戸沢村などの4町村が「局地激甚災害」に指定される被害を受けています。自然災害の脅威を再認識し、先人たちがどのように水とたたかってきたのかを知る機会になれば幸いです。

第212回 写真でふりかえる 昭和・平成の酒田

昭和8年(1933)の市制施行により町から市になった酒田。昭和29年(1954)の昭和の大合併をへて、平成17年(2005)の平成の大合併で、現在の酒田市が誕生してから、15年目を迎えます。その間、人々の暮らしも街並も変わり続けてきました。

令和最初となる今回の企画展では、酒田大火(昭和51年/1976)が起こり、酒田にとって大きな変化の時代だったと言える昭和50年代を中心に、昨年寄贈された報道写真などの貴重な写真で、昭和から平成と移り変わってきた酒田をふりかえります。この頃、酒田のために各分野で尽力した名誉市民・特別名誉市民の方々も紹介します。

昭和の酒田の風景を、現在の同じ場所で撮った写真と見比べてみるコーナーも設けました。酒田の姿がどのように変化してきたか、懐かしい思い出とともにふりかえっていただければと思います。

第213回 酒田湊と北前船―土地・もの・人の縁―

寛文12年(1672)、幕府の命を受けた河村瑞賢が、最上川流域の御城米(幕府領米)を酒田から江戸に輸送するための西廻り航路を整備しました。この航路によりひとつにつながった日本海を舞台に、江戸中期から明治半ばまで繰り広げられていたのが、蝦夷地(北海道)と西国を結んだ北前船交易です。

海上物流の拠点としてにぎわった酒田湊には、全国各地の産物を積んだ船が集まり、最上川舟運によって内陸から運ばれた紅花や青苧などの名産品が送り出されました。江戸時代に出された全国の湊の番付では、西の前頭二枚目に選ばれています。

本企画展では、庄内はもとより県内外の多くの方々にご協力いただき、酒田の商人が各地の商人と交わした取引証文、各地の船乗りが酒田の寺社に奉納した船絵馬など、北前船がつないださまざまな「縁」を伝える資料を展示します。日和山の常夜灯や方角石など、往時の繁栄ぶりを伝える遺物も紹介します。

第214回 昔の子どものくらし―学校と日常―

子どものくらしは時代とともに移り変わってきました。本企画展では、各時代の教科書や学用品、写真など貴重な当時の資料で、明治・大正・昭和の酒田の子どもたちがどのように遊び、学んだのかを振り返ります。

写真のなかでも、浜中小学校の教員だった方が撮影した昭和30年前後の写真や、近年整理が進んだ昭和後期の写真は、特に懐かしくご覧いただけることと思います。昭和のおもちゃや雑誌からは、当時幼かった皆さんの思い出がよみがえってくるのではないでしょうか。

小中学生から、おじいちゃん・おばあちゃんまで幅広い世代の方たちに楽しんでいただければ幸いです。

第215回 ひなと春の花

木々が目覚め、草花がつぼみをほころばせる春がもうすぐやって来ます。

本企画展では、旧家で大切にされていた古今雛や享保雛などの古い雛人形とともに、桜や梅などの春の花が描かれた掛軸や錦絵、酒田出身の作家による作品などを紹介します。

また全酒田写真連盟(菅原恒男会長)よりご協力いただき、自然豊かな酒田・庄内のさまざまな春の草花を写した写真を展示します。

美しい雛人形と色鮮やかな花たちをご覧いただき、一足早い春の訪れを感じていただければ幸いです。

第216回 かっこいい酒田の女たち

奥州平泉から逃げ延びてきた女性「徳尼公」が開祖といわれる酒田。それ以降、歴史の表舞台に女性が登場することはありませんでしたが、明治時代を迎え日本に文明開化の波が押し寄せると、酒田でも女性の社会進出が始まり、新しい職業のパイオニアとして活躍する女性や、文化・芸術分野で才能を開花させる女性が現れます。山居倉庫の女丁持ちに代表されるように、市井で力強く生きた女性たちも数多くいました。
江戸に生まれながら酒田の女性教育者の草分けとなった小川宮子、今なお多くの人に愛され続けている酒田出身の歌手・岸洋子など、明治、大正そして昭和の時代に活躍した酒田ゆかりの女性たちを、有名無名を問わず紹介します。

第217回 さかたの筆・技―資料館収蔵品―

酒田市立資料館では、酒田市の歴史や文化等に関する資料を収集しています。近年には、儒学者・伊藤鳳山による「詩書屏風」、指物師・高橋徳五郎の指物、画家・鈴木重像の描いた日本画「港座」などの書画・工芸分野の資料も新しく収蔵しました。
今回は収蔵品展として、これらを含めた約40点の資料を展示し、酒田の書画や工芸の歴史を紹介します。どうぞご覧ください。

第218回 飛砂に挑んだ先人たち―庄内砂丘植林の歴史―

庄内地方は海岸部に広がる砂防林によって飛砂から守られています。現在の庄内砂丘は、水はけのよい畑地としてメロンをはじめとする農産物の宝庫となっていますが、砂防林ができる前は、ひとたび風が吹くと家や畑があっという間に砂に埋まり、土地は痩せ、水路が埋まればそのたびに掘り起こさなければなりませんでした。

植林成功の背景には、先覚者として有名な本間光丘はもちろん、酒田から藤崎地区(遊佐町)に移住し植林を行った佐藤藤左衛門・藤蔵父子や、藤蔵の甥で同じく移住して菅里地区の植林を行った曽根原六蔵、川南地区全域の植林を指導した庄内藩の植付役・佐藤太郎右衛門など多くの先人たちの苦労がありました。本企画展では、こうした砂害を食い止めるべく果てしない砂山に立ち向かい、現在の広大な松林を形成した先人たちの取り組みを振り返ります。

彼らの努力と苦労の恩恵を受けて暮らす私たちは、その物語を忘れてはいけないのではないでしょうか。

第219回 春を彩る ひなと酒田の土人形

酒田の土人形として知られる「鵜渡川原人形」。江戸時代の末期に旧鵜渡川原村(現在の酒田市亀ケ崎)の大石助右衛門が作り始めたと伝えられ、大石家では代々、雛人形をはじめ、昔話や日本の神話の登場人物、七福神などの縁起物など、さまざまなモチーフの人形を作っていました。
高価できらびやかな雛人形を買うことができなかった庶民にとって、素朴な鵜渡川原人形は手近な存在であり、毎年、子どもの健やかな成長を願って一体また一体と買い求めて飾り付け、ひな祭りを楽しみました。子どもの名前や人形の購入日を背面などに記した古い人形も残っています。

本企画展では、江戸時代後期から明治初期の古今雛や享保雛などとともに、鵜渡川原人形、戦後に広田地区で作られていた「広田人形」などの土人形を紹介。また大石家より資料館に寄贈された鵜渡川原人形の土型と木型を展示し、鵜渡川原人形の歴史や製作工程も紹介しています。

第220回 山居倉庫は日本一!!―米都酒田を支えた米券倉庫―

128年の歴史を持つ現役の米穀保管倉庫であり、酒田を代表する観光スポットとして知られる山居倉庫が、国の史跡に指定されました。

明治26年(1893)に株式会社酒田米穀取引所の付属倉庫として建設された山居倉庫は、入庫米に対して「米券」を発行した「米券倉庫」でした。戦前までの日本では、この米券を売買して米取引を行っていました。

米券制度が始まったのは藩政時代のこと。米の品質管理や検査を徹底した庄内藩の米札(米券)は高い信用を得て、米どころ庄内の名を全国に広めました。その技術と精神を受け継いだ山居倉庫の米券は、日本で最も有名な米券になり、日本銀行の指定倉庫になるまでに信用を高めました。

戦中戦後の食糧管理制度や農地改革により、山居倉庫は農業倉庫に変わりましたが、現在も設立当初の姿をとどめ、近現代の日本の米穀流通を知るうえで重要な倉庫と位置付けられています。

本企画展では、山居倉庫設立に至る歴史的背景を交えながら、米券倉庫時代の山居倉庫や当時の米穀取引に関する貴重な資料を紹介します。

第221回 祈りと医療―昔の人は病とどう向き合ってきたか―

昔、病気がまだ“得体の知れない悪いもの”だったころ、その対処法は祈祷をすることだったり、疫病神を祀ることでした。多くの病の正体が分かり、治療できるようになった近年も、妖怪・アマビエに疫病退散の願掛けをすることが流行しましたね。昔も今も祈ることは、不安にさいなまれる人々の心に安らぎをもたらす身近な行為だということが分かります。

一方で医療は神頼みではなく人の力で病魔をやっつけようと、現在まで進歩してきました。酒田でも、人々を救うべく懸命に戦ってきた医師や関係者たちがいました。

「祈り」と「医療」―。全く違うもののようですが、どちらも「なんとかして病を逃れ、健康でありたい」という願いの現れです。感染症への緊張が続く今の私たちだからこそ、昔の人が抱いてきた切実な想いに触れることができるのではないでしょうか。

第222回 郵便制度150年 郵便と酒田

明治4年(1871)に日本で郵便制度が始まってから、令和3年で150年を迎えました。これに合わせ、明治から現代までの文書や写真などの資料から、郵便が伝える酒田の歴史・風俗を紹介します。
郵便制度にまつわる資料のほか、日露戦争時の軍事郵便や、酒田ゆかりの著名人の手紙や葉書を含め、明治時代以降の酒田の人々の書簡を読み解きます。手書きで綴られた手紙・葉書は、その時代の様相を伝えるだけではなく、それを書いた人の人柄や心情にふれることができる奥深さがあります。
また、昔の酒田の風景や人々の暮らしを伝える貴重な資料として、明治時代から昭和期にかけて発行された絵はがきを紹介しています。

第223回 梅月 謎多き酒田の女絵師

梅月は江戸後期の酒田の女絵師です。酒田内町組大庄屋の伊東家に生まれて彫刻師・白崎善次郎(文錦堂)の養女となり、鶴岡の氏家龍渓、酒田の筒井雲泉に絵を学びました。江戸に出て谷文晁にも師事しています。花鳥画、山水画を得意とし、歌や俳諧などにも長じた才女だったといわれていますが、弘化3年(1846)に33歳の若さでこの世を去り、その経歴や人物像は謎に包まれています。今では名前を聞くことも作品を目にすることもほとんどありません。
資料館では令和2年度、梅月の資料を新たに収蔵し、ばらばらになっていた粉本類(習作や下書き)を補修しました。梅月本人が描いたもの、あるいは手本として入手したものと思われますが、梅月の優れた才能、熱心に絵に取り組んだ姿勢がうかがい知れます。
本企画展では、これらの粉本を中心とした新資料を紹介します。併せて、資料館旧蔵の梅月の絵、交流のあった絵師・佐藤梅宇の絵なども展示しました。

第224回 雛と風流の世界 酒田商人のたしなみ

河村瑞賢によって西廻り航路が整備されると、酒田港には全国津々浦々の品が入ってくるようになりました。港近くには廻船問屋が立ち並び、商人の町として大いににぎわいました。商売が繁盛し、富を蓄えた酒田商人たちは、江戸や上方の品物や文化を受け入れて、雅で風流な趣味を楽しみ、また発展させてきました。俳諧、茶の湯、生け花などは旦那衆に人気のたしなみでした。
海運で江戸や上方から酒田港へ運ばれたものとして親しまれている雛人形もまた、酒田商人が買い求め、現在まで受け継がれている品です。豪商たちが軒を連ねていたころ、庶民たちは商家に飾られる贅を尽くした雛人形を見て回りました。財力のある商人が多くいた酒田らしい風習、「雛めぐり」として日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財になっています。
酒田商人がたしなんだ風流な文化にまつわる資料と、資料館のおひなさまの展示です。

第225回 酒田湊の繁栄はここから始まった 河村瑞賢 西廻り航路開設350年

寛文12年(1672)、江戸幕府の命を受けた河村瑞賢は、出羽国(現在の山形県、秋田県)の天領(幕府直轄領)で取れた年貢米「御城米」を、酒田から江戸まで早く安全、確実に運ぶための水上輸送航路を整備します。
瑞賢は各地に人を派遣して航路を調査し、酒田には御城米を保管するための御米置場、通称「瑞賢庫」を造りました。瑞賢庫があったのは現在の日和山公園。ちょうど瑞賢像が見下ろしている場所です。
こうして着々と準備が進み、5月に酒田湊を出発した御城米船は、日本海を西に進み、瀬戸内海を通り大坂を経て、無事7月に江戸に到着しました。これが、北前船が行き交う物流の大動脈となり、酒田湊ににぎわいをもたらした「西廻り航路」の始まりです。
伊勢国(現在の三重県)で生まれ、江戸に出て材木商となって財を成した瑞賢は、なぜこの大事業に抜擢され、どのように整備を進めたのでしょう。
江戸時代の日本の海運に変革をもたらし、酒田湊を大きな繁栄へと導いた西廻り航路開設から350年を迎えた今年、瑞賢の動向や庄内藩の対応を記録した古文書や古絵図などからひもとき、瑞賢の功績を紹介します。

第226回 絵と写真に残る 庄内の農耕風景

日本人の生活が大きく変わった戦後の高度経済成長期は、稲作の機械化が進んだ時代でもあります。トラクターやバインダー、コンバインなどの農業用機械の導入が進むにつれ、田を耕し、刈り取った稲やたい肥を運んだ馬や牛は次第に姿を消していきました。手作業でひとつひとつ苗を植える田植えは珍しくなり、庄内平野の稲作風景は大きく変わりました。
資料館では、まだ人の手による田植えや稲刈りが行われていた昭和30~50年代に撮影した写真フィルムや、地元の人たちが思い出を振り返り、温かい筆遣いで農作業風景を描いた絵などを収蔵しています。この中から、生き生きと働く人々の様子や、農家の嫁入りなど、昔懐かしい農村の風景を紹介します。
江戸時代後期から明治時代に、庄内の絵師が当時の農耕風景を描いた2つの「四季農耕図」も併せて紹介します。

第227回 見て楽しい 昔なつかし 酒田の看板と広告

江戸時代から日本海有数の湊町、商人の町として繁栄し、多くの商店が立ち並んだ酒田。時代が明治・大正・昭和と移り変わるなかでも大きなにぎわいを見せました。こうした酒田の町には、宣伝を目的としながらも、それぞれの商店が趣向を凝らした多彩なデザインの看板や広告があふれ、人々の目を楽しませてきました。
本企画展では、明治から昭和にかけて作られた看板や広告の中から、一目見て何の店かがわかるロウソクや筆などの商品模型の看板や、「引札」と呼ばれる色鮮やかな明治・大正時代の広告、新聞、冊子などに掲載された面白いデザインの広告を紹介します。昭和レトロな飲食店のマッチ箱や、おしゃれな商店の包装紙にも注目です。
当時の酒田のにぎわいと人々の暮らしぶりを伝える写真も、併せて紹介します。

第228回 酒田の芸妓 港町の料亭文化を彩り、芸に生きた女性たち

全国各地の船が行き来する物流港として繁栄した江戸時代の酒田。船を降りた船乗りたちが羽を伸ばしたのが、「三遊所」と言われた今町・船場町・新町(高野浜)の遊所です。なかでも商談や接待に使われ、高い格式を誇った今町は、全国の遊所番付で東前頭七枚目に入るほど、名前が知られていました。そのにぎわいは明治以降、今町・台町界隈に発展した料亭街へ受け継がれました。
宴席に踊りや唄、三味線などで花を添え、お客をもてなした芸妓の存在は、酒田港繁栄の象徴のひとつです。大正から昭和にかけての花柳界全盛期には、100人を超える芸妓が芸を磨き、今町と新町に分かれて競い合いました。
その活躍の場はお座敷にとどまりません。港座では毎年のように発表会が開かれ、山王祭(酒田まつり)などのイベントでも市民を楽しませました。酒田を全国にPRする観光大使的な役割も担いました。
戦後、生活様式の急激な変化により芸妓の数は減少し、その歴史は幕を閉じる寸前でしたが、平成2年に「舞娘さん制度」がつくられ酒田舞娘として復活。今日まで伝統の灯がつながれています。
酒田舞娘の育成に尽力し令和2年に亡くなった力弥など、主に昭和期に活躍した芸妓たちを紹介し、明治以降の酒田の花柳界の歴史をたどる展示です。

第229回 もっと楽しい!おひなさま

北前船によって江戸や京都から酒田へ運ばれ、大切に伝えられて来たお雛様。資料館のお雛様は市民の方からご寄贈いただいたお人形がほとんどで、古いものは江戸時代の制作と思われます。また、手まりや民芸品など、お雛様と一緒に飾ったさまざまな品物があり、毎年展示の際にはどのように飾ろうか迷ってしまいます。
皆さんもご家庭でお雛様を飾るときに、お雛様や道具などをどう並べたら良いのかと考えることはありませんか?本企画展では、お雛様の歴史や飾り方、鑑賞のポイントを詳しく、やさしく解説しました。知っているようで知らなかったお雛様の豆知識も紹介しています。ご家庭でお雛様を飾る際にお役立ていただいたり、お人形の役割や道具の由来について、話に花を咲かせていただければと思います。

第230回 ありがとう45年 未来へとつなぐ酒田の宝物 館蔵品展その1-文化・娯楽資料-

昭和53年(1978)5月18日に開館した酒田市立資料館も、令和5年9月30日をもって閉館することになりました。今後は、酒田市立光丘文庫とともに、歴史的公文書も合わせ郷土の資料を収集、保管、展示していく施設として、令和6年度に酒田市総合文化センターの市立図書館跡に新たに開館する計画となっています。

昭和51年(1976)10月29日に発生した酒田大火は中町の中心商店街から出火し、新井田川まで22.5ヘクタール、1,774棟を焼き尽くす未曽有の災害となりました。

当資料館は大火復興の記念として、その被災地跡にいち早く建設されました。それ以前は、歴史的な資料を総合的に収集、保管、展示する施設がなく、火災や生活様式の変化などで失われていく危険性もあることから、地元の歴史や文化を伝える資料を後世に伝えていくことを目的に作られた施設です。開設以来、市民の皆様や研究者の方、小中高生・大学生などの学習や調査の場としても親しまれ、利用されてきました。

この45年間の入館者数は延べ37万人となり、寄贈、寄託、購入によって現在、約13,000件、60,000点余りの資料を収蔵しております。収蔵資料は、当地域の歴史・民俗・産業・文化を紐解くための資料として次世代にも残していかなければならない貴重な宝物です。

本企画展では、当資料館での最後の企画展として、「その1-文化・娯楽資料-」「その2-歴史資料-」「その3-人物資料-」の3回に分けて、展示する機会の少なかった貴重な資料を中心とした館蔵品を紹介します。

第一弾となる文化・娯楽資料としては、酒田ゆかりの画家や工芸職人が残した作品や、娯楽の王様だった映画館の資料などを紹介します。


第231回 ありがとう45年 未来へとつなぐ酒田の宝物 館蔵品展その2-歴史資料-

酒田大火(昭和51年10月29日)の復興記念事業として、地元の歴史や文化を伝える資料を後世に伝えていくことを目的に、昭和53年(1978)5月18日に開館した酒田市立資料館。市民の皆様をはじめ、県内外を問わずたくさんの方に親しまれ、利用されてきましたが、今年9月30日をもって45年の歴史に幕を下ろすこととなりました。今後は、酒田市立光丘文庫とともに、歴史的公文書も合わせ郷土の資料を収集、保管、展示していく施設として、令和6年度に酒田市総合文化センターの市立図書館跡に新たに開館する計画となっています。
当館が収蔵する資料の点数は、この45年間で寄贈、寄託、購入によって約13,000件、60,000点余りになりました。当地域の歴史・民俗・産業・文化を紐解くために、次世代にも残していかなければならない貴重な宝物です。
本企画展では、当館での最後の企画展として、「その1-文化・娯楽資料-」「その2-歴史資料-」「その3-人物資料-」の3回に分けて、館蔵品の中から展示する機会の少なかった資料を中心に紹介します。第二弾となる今回は、亀ヶ崎城時代の酒田の古絵図をはじめ、電灯の点灯、電話の開通、鉄道敷設などが進んだ、明治以降の酒田の近代化のあゆみを伝える資料や古写真、町並みの変化が分かる明治から昭和までの中心市街図などを紹介します。

第232回 ありがとう45年 未来へとつなぐ酒田の宝物 館蔵品展その3-人物資料-

当館における最後の企画展となる本展では、4月から3回に分けて、展示する機会の少なかった貴重な資料を中心に館蔵品を紹介してきました。最終回は「その3-人物資料-」として、『夜明けのうた』『希望』などのヒット曲で知られる歌手・岸洋子をはじめ、酒田出身または酒田で活躍した人物に関連した資料を展示します。
これまでもお知らせしているとおり、酒田市立資料館は令和5年9月30日をもって閉館し、市立光丘文庫とともに郷土の資料を収集、保管、展示していく施設として、令和6年度に酒田市総合文化センターの市立図書館跡に新たに開館します。
当館の収蔵資料は、酒田の歴史・民俗・産業・文化を紐解くための資料として次世代に残していかなければならない、市民にとっての宝物です。新たに設置される文化資料館(仮称)は、現在の資料館と光丘文庫の機能のほか、近代以降の酒田の歩みを伝える歴史公文書の管理と活用もあわせて担うこととなり、真の意味で総合的に酒田の歴史を未来に伝える施設を目指してまいります。
45年間にわたって愛されてきた資料館の伝統を受け継ぎつつ、これまで以上に多くの皆様に利用される郷土の文化を伝える施設となるよう努めてまいりますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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〒998-8540 酒田市本町二丁目2-45
電話:0234-24-2994 ファックス:0234-23-2257

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