■酒田市復興対策事務所の開設 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市内の繁華街であるばかりでなく酒田、飽海地区商店街の中心として栄えてきた 商店街が一夜にして灰燼と化したため、商店街の復興が酒田市復興の成否のカギとなった。
市では、この商店街の復興を主体に、復興対策事務所を開設し、 復興のための相談と指導にあたった。 商店街の再編状況
セットバックとショッピングモール 防火建築と魅力ある商店街づくりの矛盾点にアーケードがあった。 風雨の激しい酒田では、どうしてもアーケードが必要であるが
今大火の経験から不許可になった。 商店街近代化事業による資金の導入 商店街近代化事業は長期、低利の高度化資金を借りるわけで、 各商店の計画と商店街の計画が近代化事業といえるものでなければならない。 商店街復興計画
山形県知事の認可を受けた事業計画書の集計である。()内は高度化利用 |
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■市街地再開発事業 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近代化事業と共に、土地の高度利用、建物の共同化、公共的施設の整備を 目的とする市街地再開発事業は、既にマスタープランによって
位置づけられた大型店舗の配置に従って、具体的に始動したのは52年の春である。 マスタープランでは駅前地区の回遊性を高めるため、大型店舗は27街区
(浜町通り、旧山王堂町付近)と5街区(旧上中町大沼デパート付近)に 位置づけされていた。 5街区の中町地区は清水屋デパートの進出が決定することによって、 52年8月18日、第一種市街地再開発事業(民間による再開発)の認可を申請し、 直ちに権利変換の具体的な取り決めに入り、キーテナントである清水屋と 建設協力金、賃貸料のめどを確認しながら設計を進め12月に着工した。 この大型店舗は「酒田セントラルビル」として、延面積で2万m2、 33億円を投じて53年10月竣工し、中町商店街の核としてその偉容を 示している。 この5街区の北側にあたる4街区は5ブロックに細分化し、そのうち3ブロックが 再開発事業として出発した。第1第2工区は11月、ホテルを持つ東地区は 54年3月竣工した。 南の6街区では、ショッピングと立体駐車場(325台収容)を主体とする 延約1万2千m2のビルは12月にオープンした。 一方、32m道路沿いの27街区付近に進出予定の大沼デパートは、 地権者の反対で建設を断念して、31街区(本間家旧本邸東側付近)に進出を 希望したが、ここも地権者との合意が得られず中止となった。 このように幾多の困難をのりこえて、55年の春、残っていた柳小路の道路の整備と、 立体駐車場ビルの一部(バス停留所)もとどこおりなく完了した。 |
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■大幅な利子補給 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各種事業が罹災者の要望を最大限に受け入れながら相互調整され、 早期に完了させねばならぬ状況下で、建築物の整備は、土地の換地作業よりも
複雑で困難であった。 全ての財産を失った罹災者には何の資力もないのである。 激甚災害の指定によって住宅金融公庫の融資額が(その後52年9月に改訂され
耐火構造で660万、木造で580万に増額された)極めて有利な条件の 政府融資はあるが「借入の道あれど返済の道なし……」が 罹災者の偽らざる本音であった。 そこで県と市が協力し、被災住宅の復興促進と罹災者の負担軽減を図るため 災害認定の交付を受けた847名を対象にして、大幅な利子補給を 実施することになった。 その例を示すと、 標準建設費 − 公庫融資額 − 自己資金 = 不足額となる。商店は150m2、住宅は120m2を限度とし、 利子補給対象額の限度は鉄筋で400万、木構造で180万とし、 利子補給率は2.9%を5年間続けることになった。 この所要額は約4億円となったが、県が4分の3、市が4分の1を負担する。 |
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■固定資産税の軽減 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新しい建物に対する固定資産税の軽減が、復興自治協議会より強く要望され、 復興促進と罹災者の生活安定のため市は52年12月市税の改正を実施し、 51年10月から55年1月1日までに取得する家屋の固定資産税を 大幅に軽減することになった。 その内容は、一般家屋で初年度は全額、二年度目は3分の2、三年目は 2分の1にそれぞれ減免した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■共同店舗の誕生 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
共同店舗づくりの計画についても、被災直後から真剣な論議を重ねたが、 仮換地との関連もあって、その実現は極めて至難であった。
数人のグループで計画をたててはみたが、その中には共同店舗づくりに 不安を抱く人もあって、まとまりがつかず、気のあった人だけの仮換地を、 一定の位置にまとめて欲しいとの要望もあったが、現地照応を基本とする
仮換地の性格上、かなり難しい調整作業となった。 このような中で、被災直後から35名の地権者で進められた旧大工町の町づくりは、 底知れぬ苦難の道を歩みながらも、不屈の努力とお互いの協調によって 生み出された共同店舗計画であった。 この計画をばっくあっぷしたのが、地元出身の中央設計グループと、 酒田復興に何かを残したいと意欲を燃やした地元建設業界の有志である。 三者一体で進められた計画の中味は、共同店舗による土地の高度利用、 売場面積の有効活用、共通の駐車の確保、建物コストの軽減等、 新しい共同店舗づくりに対していくつかの利点を持つものであった。 しかしプレハブ化による量産体制にはいるには、少なくとも100戸程度の 集団化が前提であったし、各店舗の間取り、階高等、少なからず制約を受ける面もあった。 長い間、寝食を忘れて地権者の調整は進められた。それも決して強制ではなく、 できることだけを一歩一歩積みあげ方式の話し合いの中から前進を続けた。 結果的には24戸の地権者が合意し、その工法もユニットからP・C(柱、梁、床、壁等を 高質で高精度のコンクリートで、部品を各戸の間口や奥行きに合わせて工場で製作し、 これを現地に運んで組み立てる方法)工法に切替え、53年の春にスタートした。 それ以来突貫工事の連続によって、ようやくこの年の歳末商戦に、 店舗部分の竣工をみることができた。 大工町の地権者が、防災都市づくりに燃やした努力は高く評価され、 行政も又、立派な一つの高層ビルよりも、町全体としての繁栄を期待される町づくりを 強く推進した結果、ユニークなデザインと名前を持つ「たくみながや」等、 16棟、51戸の共同店舗が完成し、再開発事業による共同ビルも含めると、 全商店延面積の60%以上共同化されたことになる。 |
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■3倍に増えた駐車場 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
酒田大火によって焼失した22.5haの区域のうち、その大半は商業中心地であった。 焼失区域内に現存していた駐車場は、48ヶ所で773台の収容であるが、
有料分は638台でその内訳は時間駐車が371台、月決めが267台となっていた。 大火復興の基本計画によれば、本市の車保有台数は1世帯当たり1.13台で 県下ではトップクラスにあり、今後益々の車の増大を見込み、 魅力ある商店街を再建するためには、少なくとも800〜1,000台の 客用駐車場の設置が強く要望された。これは被災前の約3倍の数字である。 54年6月末における被災地の駐車台数は、総数で2,000台を確保している。 その中味を分析してみると、常時来客用として開放されているものが、 有料・無料を含めて963台で、そのうち月決めが115台であるが、 これは商店主が他の駐車場の持ち主と月決め契約し、客用に開放しているものである。 次に多いのが一般の月決めで726台。これは被災地周辺の職場に通勤する人達と 営業上の必要性から各商店が固定化して利用しているものである。 このほか従業員用が133台、自家用のみの利用として227台の確保が注目される。 駐車場の設置は、当初かなり困難視されたが、当分の間建築の計画を持たない地権者が、 空地の暫定利用として駐車場に整備したこともあり予想を上回る数となった。 しかし、有料駐車場の回転率と売上げは計画を下回っているものもあり、 周辺道路の全面完成を期に、駐車場の案内表示を設置するなど、 友好的な利用が要望される。 |