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酒田大火

更新日:2026年7月28日

酒田大火について

昭和51年10月29日夕刻
酒田市内中心部の商店街で発生した火災は、
おりからの強風にあおられ、
22.5ヘクタールを焼き尽くす大火となりました
この写真は、その酒田大火の記録の一部です

【参考資料】
酒田市大火の記録と復興への道(酒田市)
復興さかた(酒田市)
酒田大火復興建設のあゆみ(酒田市建設部)
酒田大火記録と復興のあゆみ(酒田市建設部)
【写真提供】
酒田市資料館

延焼場所

17時40分ごろ映画館より出火。
西からの強風にあおられ、一気に大火へと展開する。
懸命の消火活動も火の勢いを弱めることができず、
夜半を過ぎてもなお火は東へ進む。
午前3時。新井田川を最後の防火線とし、対岸にて直上放水を行う。

午前5時、鎮火。

延焼状況

火元のグリーンハウス(映画館)の風下に、協働社の木造二階建のビルを始め数軒隣接しており、火災はこれら木造家屋を焼きつくして延焼したと推定される。
大沼デパートへは、東側の飾窓の一部を加熱により破壊し、そこから火が進入し二・三階の可燃物を焼きつくしながら上階へ移ったと推測される。
同デパートの五階の西側、及び東側の窓が破壊されたため、五階全体だけが吹き抜け状態になり、炎と飛火が中町通りを越えて吹き出して、隣の街区への延焼を助長させたと思われる。
三階建の耐火建物であるてぶくろ横丁の東側には、池田洋品店等の木造家屋があったが耐火建物の陰になり延焼着火が遅れた。
大沼デパートから噴出した炎と飛火により、中町通りの反対側の太田商店及びごろや商店の裏側に延焼着火した火災前線は西よりの風に煽られて順次拡大して海晏寺の方向に移動した。
マルイチ中町マートは非常に長い三階建の建物であり、ほぼ南北方向に建てられていたため、一時的に火災の拡大を遅らせる働きをしたが、いったんその中に火災が進入してからは、建物の内部を火災が一街区を走り抜けて、たくみ銀座通りを越えて、一部三階建の木造の中央座の軒下に延焼した。
この頃、すでに火の玉、火の粉が多数発生して中町一丁目の飛火による延焼着火が発生しているが時間別には次の通りである。

18時ごろ
17時40分ごろ、グリーンハウスから出火した火災は、18時ごろには猛烈な火の粉を吹きだし、風に乗って約1キロメートル離れた酒田駅周辺に激しい火の粉を降らせた。
その後、風向きは中町通りと平行に変わった。

19時ごろ
火災は、大沼デパートと、てぶくろ横丁の間を抜け、大沼デパートに入る。
大沼デパートから噴出した炎と飛火により中町通りの反対側のト一屋隣の商店の裏側に延焼着火した火災前線は西よりの風によって順次拡大して海晏寺の方向に移動した。

20時ごろ
大沼、産業会館、てぶくろ横丁、中町マート、ケルンなどの耐火建物に囲まれていた火災は、中町マート内に火が走り、内匠通りを越える。中町マートの建物は非常に長い三階建であり、ほぼ、南北方向に建てられていたため、一時的に火災の拡大を遅らせる働きをしたが、いったんその中に火災が進入してからは、建物の内部を走り抜け内匠通りを越えて、一部三階建の木造の中央座の軒下に延焼した。この頃を境に火の玉、火の粉は浜田小学校の方向に飛散。中町一丁目の各所で飛火による延焼着火が発生した。

21時ごろ
火災はアーケード又は中町通りに沿って進む一方で、商店の裏側の露出した可燃物を通じて拡大した。このころには耐火建物と消防活動だけでは、もはや包み込めない程の勢いとなり、火災は出口を求めて中町通りを激しい勢いで走り抜けようとする。
大沼からたえず噴出する炎と火の粉、家屋群が燃上することによって発生する炎と火の粉は、中町通りのアーケードの上を走り抜けて行く。そして燃えやすい家を選んでは火をつけていくようになる。
図内の番号は、消防士の証言による家屋の着火順序である。中町通りではアーケード上を先兵として火が走り、下はそれよりおくれ、二段構えで火が走ったと思われる。一方、内匠通りでも中央座が燃上、炎と火の粉が走る。

22時ごろ
火流は、中町通り、内匠通りの二本の道路を強風によって引っ張られていった。
この時期まで、火流は中町通りが先行し、勢いも強かった。

23時ごろ
このころになると中町と内匠町の火流の勢いが逆転する。中町の火流は浜町につき当り、耐火建物が多いため大幅に勢いを弱める。内匠町の火流は上り坂となっているため勢いを増して愛宕神社へかけ上る。その勢いのまま浜町通りを越えて一番町、新井田町へかけ下ったと思われる。浜町通りには耐火建物がくしの歯状に建っていたことも火流の速度を速める原因となった。川幅が狭くなると水の流れが速くなるのと同じ原理である。こうして勢いを増した内匠町の火流は、弱まった中町の火流を引っ張る形となり、同じ方向へ合流した。

0時ごろ
二本の合流した火流は、一番町、新井田町を燃やし新井田川へとすすむ。中町通りの火流の大部分は浜町から左に折れ、寺町の方に引っぱられていくが、一部は右に折れ内町にすすんだ。その勢いは非常に弱く、いやいやながらという形でゆっくり燃え移っていきた。
このころから、火の玉、火の粉は新井田川を越え、東栄町、若浜町、緑町方面に飛散する。

1時ごろ
火は一番町、新井田町にひろがり一部は新井田川に至る。一方内町に折れた火は弱いながら次第にひろがっていく。
破壊消防が行われたのはこの火災に対してであった。ただ一軒燃え残った住宅は、中町通りを走ってきた火流が、浜町通りにつき当たり、大部分が左へ折れ、一部が内町へ、と分流現象を起こす場所に位置していた。中町通りの火流が、左と右に分かれる地点からすこし奥まった絶好の場所に位置していたわけである。

2時ごろ
火は新井田川に至り、一番町、新井田町は火の海となる。燃え残った住宅は北側が土蔵、樹、空き地で西側と南側は駐車場というように、火災には三方向をブロックされていた。しかも、みぞれまじりの雨が時おり降るため、これらの土蔵、樹、空き地、駐車場、住宅は絶えず濡れた状態にあり、火の粉、熱風、輻射熱は大幅に弱められた。一方東側の新井田町一帯の火災に対しては風上に位置し、風上からは冷たい風が吹き込んで冷却し続けていたので燃え移る危険性はない。一軒だけが奇跡的に燃え残ったようにもみえるが、このようにしてみると、十分な必然性があることがわかった。

3時ごろ
火は新井田川沿い一体にわたって燃えひろがったが、対岸での消防隊の直上放水、また、雨が一段と激しく降ったことなどから4時過ぎには対岸への延焼の危険性は去った。

復興のあゆみ

応急対策

悪夢の一夜は過ぎた。
呆然と佇む罹災者の保護が最大の急務であり、自衛隊、消防団を主体に瓦礫片付けなど、次の災害応急対策が開始された。

応急対策
項目 内容
借地借家臨時処理法の適用 火事による災害を受けた借家人及び借地人の保護を図るため、11月24日よりこの法律が適用され、家屋が全焼した場合でも、ある一定期間の借地権が認められると共に、地主が家屋を新築した場合、借家人には入居の優先権が与えられる。
建築基準法84条による建築制限 罹災地に個人が勝手に家を建て始めると、区画整理事業に大きな支障があるので、一定期間建築物を制限した。制限場所は、区画整理区域内の31.9ヘクタール、1店舗当たり100平方メートル以下の仮設店舗、その他これに類する仮設建築物以外のすべての建築を11月4日より12月29日まで全面制限した。
住宅金融公庫の融資額の拡大 激甚災害の指定(11月24日)により、公営住宅の補助率の限度を3分の2から4分の3に引き上げると共に、住宅金融公庫の融資について、木造320万→540万、耐火構造440万→610万に引き上げ、利子は5.5%→3%に引き下げた。
応急仮設住宅 被災者よりの強い要望で、災害地にできるだけ近い場所に設置することになり、中央公民館の54戸を最高に、浜田小23戸、若浜小22戸、藤井氏宅地29戸、専修訓練校20戸、終末処理場用地50戸、計198戸を12月20日まで完了。
仮設店舗 復興計画に支障のない場所(9か所)に238戸建設。
災害公営住宅 51年度、若宮町に96戸(県営48戸、市営48戸、3DK)、52年度、光ケ丘及び富士見町に96戸(市営3DK)、計192戸建設。
応急対策のうち救助活動
項目 内容
避難所の設置 10月29日から11月3日まで、災害の状況に応じ、市民会館など7か所に避難所を設け、延べ2,202人の避難者を収容した。
炊出し等 10月29日から11月4日まで、7,486食の炊出しを実施。経費約百万。
被服・寝具支給 10月30日から11月7日まで26,400点の現物支給。経費約3千万。
医療関係 10月29日から11月11日まで13医療機関で809人の救護活動。
住宅の応急修理 半焼7世帯のうち、2戸について応急修理。
学用品の給付 11月11日から26日まで、515人に支給。経費約1千万。
輸送関係 10月30日から11月7日まで、避難所及び救助物資の輸送に動員した車は200台、人員957人。経費約7百万。
消防隊の出動 酒田地区の消防車15台、他地区応援も含めて217台、2,657名の消防隊が出動。
瓦礫片付け 自衛隊、消防団等の車2,764台、その量は73,000平方メートル。経費約8千万。

復興都市計画

■廃墟の中で原案づくり
残り火がくすぶる31日早朝から、酒田市役所において、建設省、山形県、庄内支庁建設部、酒田市都市計画課など国と県と市が一体となって火災復興都市計画の作業が開始され徹夜作業の末、11月1日夜半になって、防災都市づくりの計画概要が完成した。
この復興計画の原案は、酒田市都市計画審議会の了承をえたあと一週間後に市民に公表された。原案のねらいは「防災都市の建設」を柱とし次の4点を骨子としたものである。

  1. 将来交通量に対応した幹線道路の整備
  2. 近代的な魅力ある商店街の形成
  3. 住宅地の生活環境の改善整備
  4. 商店街と住宅街の有機的な結びつけ

■将来の交通量に対応した幹線道路
復興計画の基本となる幹線道路については、山形県庄内地区総合交通計画調査委員会でまとめた中間報告を参考とした。この調査報告では、現在の国道7号線は昭和49年交通量が1万~1.7万台であるのに、昭和60年では1.5万~5.4万台となり、駅前通り、秋田町通り、浜町通りの市内幹線は、現在よりも1.5~3倍近くに交通量が増大し、各路線とも1日1万~1.7万台と予測されている。
このための重要路線は4車線に拡幅することになり、その道路幅も現在の8~15メートルから25メートル以上の幅員となった。更に浜町通りなどは、商店街としての機能を満足させるための歩道と植樹、そして防災空間上の必要性から全幅32メートルの広幅員道路として位置づけられた。また住宅街の幹線道路として新井田町を南北に貫通する幅12メートルの都市計画道路を設定した。

■商店街の振興と住環境の整備
被災地区の大半は酒田市の繁華街であり商業の中心地でもある。酒田随一のメインストリートにふさわしい魅力的な近代的商店街づくりの軸として考えられたのが、中町通り、内匠町通りに計画された幅員12メートルのショッピングモール(歩行者専用道路)である。
庫の歩道は浜町通りを地下道で横断し、新井田町の歩行者専用道路(幅8メートル)及び各種公園と連絡し、更に新井田川に架橋することにより、東栄町方面の新興住宅街と直結される。これら3本の歩行者専用道路は車優先の社会から脱出をはかり非常の場合以外はすべての車を排除し買物道路、通勤通学、自転車道路として利用され安全、快適な都市環境を生み出すものと思われる。
区画道路の計画について特に配慮されたものは、

  1. 商店街のサービス道路の新設
  2. 通過交通排除のため、従来の十字型交通網を整理しながら、T字及びコの字型とする
  3. 全ての宅地は公道に面するようにする
  4. 酒田における冬期北西の風を考慮して、住宅地の道路は南北方向を主なる軸となるよう設計された
    (道路の雪が早くとけやすいことと、北側が玄関となる宅地の減少)

■緑の都市空間の確保
都市緑地、駐車場等の都市空間、緑の社寺用用地等が防災上に果たした役割については、酒田大火の焼け止り線を見るだけでも既に議論の余地はない。酒田市の都市公園の数と面積は足しに劣るものではないが、その大部分は市街地周辺に遍在している。
復興計画ではこの点を重視し、被災地を三ブロックに分けて5か所の公園を配置し、各公園は歩行者専用道路と有機的に結合して市民の利便をはかり、かつ防災上の都市空間となるよう計画された。中町にある公園は商店街の広場だけではなく、市民の憩いの場所としての大きな使命を持っている。市民がそこに集まりショッピングを楽しむと共に、お祭り広場としても利用されよう。一番町の公園は、新しく建設されて、資料館用地と一体化された都市緑地であり、新井田町の公園は子どもの遊びと老人の憩いの場所として広く活用される。

■防火地域の新設と不燃建設の促進

酒田市の都市計画ではこれまで防火地域の指定地はなかったので、消防本部を中心としてその見直しを検討した結果、
1.年間の風向、2.消火用水利の状況、3.延焼防止の都市施設等
の面から、臨港線と新井田川に囲まれた旧市街のほぼ全域にわたる、約248ヘクタールに拡大して大幅に変更することにした。
この検討に当たっては、県の意見も取り入れ、又防災研究所の提言も充分に参考にしながら「必要にして最小限度」の区域とすることで意見がまとまった。具体的には、中町商店街の東西に幅約70メートル、長さ約450メートル、浜町地区には南北に幅62メートル、長さ約350メートル、T字型の防火地域が誕生することになった。

住民対策

■情報活動
災害・復興速報
大火発生後、散りぢりに避難した罹災者や一般市民に、いかに正確にそして又迅速に事後の情報を提供するかが、復興への第一歩であった。
よって、大火直後の11月1、2日の山形新聞朝刊に「広報さかた災害速報」を掲載し3号以降は別刷りとして「広報さかた災害速報告知板」を発行、新聞折込みとして家庭に配布した。以後51年12月30日まで30号を発行したので、単純な計算では2日に1回の割で刊行したことになる。広報車によるマイクの呼びかけや、焼け跡に告知板を立てたりしたが、この速報がもっとも効果があった。
年が明けた52年は「復興元年」を合い言葉に、速報名も「復興速報告知板」と改めたが、緊急の告知も減少し、53年2月25日号をもって最終回とした。

■相談所の設置
罹災者の緊急相談にそなえて、各種相談所を、市役所内に開設し、関係各庁、会社職員が出張して相談に応じ、的確な処置を行った。
火災保険所の相談所
10月31日~11月4日 於市役所
損保各会社代表によって、市役所正面ロビーに共同事務所を設置した。損保全体で約1,600件、アットリスク64億円程度という金額が判明した。次いで消失地域に対する損害査定の準備に入り「全焼地区に対しては、手続きを簡単にして迅速な支払いを行え」との方針が説明され早急に実施された。
税務相談所
国県市三税共同税務相談所
11月2日~24日 於市役所
納税の期日が迫っており、早急に税に関する救済(納税の猶予、租税の軽減免除)を図る必要があった。また国県市の税務相談を一か所ですませられるよう、三者共同の税務相談所を市内各所に開設した。
相談件数
所得税関係…258件。法人税関係…59件。譲渡所得関係…36件。相続関係…5件。
源泉所得関係…407件。酒税関係…40件。その他…23件。
計828件
酒田税務署2階には「災害相談コーナー」を設置し、税理士会主催で市内百貨店、産業会館内で「税務相談所」を行った。
無料法律相談所
12月11日と15日 於市役所
今回の災害では、借地、借家等のむずかしい法律問題が予想されたので、弁護士、裁判所職員、法務局職員による相談を行った。
雇用保険相談所
11月2日から 於市役所
中心商店街が全焼したため、商店勤務の人々が即日失業という状況になった。特に雇用保険に未加入の小規模商店の救済のため、さかのぼって1か年の保険料を納付させ、加入者と同じく認定をするという特例を施行した。
相談数 雇用保険加入業者23件。未加入業者25件。
大火による失業者数約200名。うち100名が仮設店舗、並びに復興商店に復帰でき、他の100名は他に就職した。
国民年金移動相談所
11月11日~16日 3か所移動
老齢年金の消失や、加入猶予、住所変更等、年金にかかわる相談所を、市保健課分室、母子福祉センター、中央公民館で開設した。
災害復興土地区画整理事業相談所
11月8日から 於市役所
なぜ自分の焼跡に自分の家をすぐ立てられないのか、という罹災者の疑問と不安を取り除くことと、区画整理事業のより深い理解を求めるために、合同説明会、地区別説明会と併行して個人相談所を、市役所内に開設した。区画整理事業は12月29日までに事業認可を受ける必要があり、市民の協力は一刻を争う緊急事であった。

相談所開設初日の相談件数は48件で、11月中だけでも延621件に達した。11月中の相談には不安感が多く、
1.自分の土地はどこに、どのようになるのか。
2.整理前と同じ場所に住めるのか。
3.安い代替地はないか。
などであったが、12月に入ると換地に関する希望が多くなり、12月1日から開設された山形県酒田火災復興建設事務所の相談分を含めると、主たる相談内容とその割合は次表に示されたものである。

主たる相談内容とその割合
相談内容 昭和51年
11月
12月 昭和52年
1月
2月 割合(%)
区画整理され新しく道路や公園ができると、自分の土地は「どこに」「どのような」土地があたえられるのか 131 54 3 0 188 18
区画整理後も従前と同じ場所に住みたいができるでしょうか 143 100 12 1 256 25
市が買収する買収すると地の価格と希望する土地の価格があえば、地区外へ移転しても良い 130 50 0 0 180 17
区画整理されることにより借地、借家権者は、どのようになるでしょうか 62 16 0 1 79 8
仮換地等計画の進行状況は     9 9 18 2
審議会とは     3   3  
計画変更のなかみ     6   6 1
整地の承諾書関係     5 9 14 1
その他 155 77 43 15 290 28
621 297 81 35 1,034 100

■説明会
合同説明会
復興への基本計画である区画整理事業への、罹災者の理解と協力が急務であることから、その説明会が開かれた。まず被災地区を4ブロックに分け、第1回目を11月8日産業会館で行った。
市長以下関係部課長、市議会特別委員等が出席して、次のことを強く要望した。

  1. みんなが少しずつ公平に土地を出し合うこと
  2. 新しい宅地の場所が変わること
  3. 建物の移転には補償のあること
  4. 住民の意見は審議会に反映されること
  5. 事業は早く進めたいが、順調に進んだとしても新しい土地での新築は53年3月10日以降になること
  6. 減歩を少しでも緩和するための土地の買収が必要であること

説明後、罹災者から鋭い質問が飛んだ。迅速な復興計画には賛意を示しながらも、住民に一言の相談もなく原案が決められたこと、減歩無償に対する不満などさまざまの意見が出たが、基本計画に反対する人は唯一人もいなかった。

各地区説明会
被災地区には、8つの商店会と19の自治会があり、この単位で連日説明会がもたれ、12月に入ってからも事業計画の中味について続けられ、年が明けてからは、換地の説明を中心に県・市合同で実施され、4月上旬までに61回延1,000名に達した。
計画に対する意見書18件
区画整理事業計画に対する縦覧は、11月27日から2週間と定め、地権者の意見提出期日を12月24日までと告示した。説明会等による必死の説得にかかわらず、住民の理解をえられず、既存道路の廃止反対、クランク道路やコの字型道路の廃止などを含めて18件の意見書が知事宛に出されたが、12月27、28日の山形県都市計画地方審議会で全部不採択となった。
大幅に民意を反映 事業計画の一部変更
市民の意見書は不採択となり、予定通り建設大臣の承認を得て12月28日認可されたが、市民の個人的、組織的な反対の声は激化する一方となり、このままでは円滑な事業は不可能と判断し、年末から年始にかけて変更案の具体的作業が県・市で調整された。
その結果、計画の変更は、
1.防災都市づくりの基本計画は変えない。
2.区画道路がふえても減歩は当初計画の13.05%を上まわらない
等を前提条件にして、変更修正原案を各代表者に説明し、大筋の了承を得て1月15日より事業計画の変更縦覧に入った。この発表によって、激烈な反対運動は徐々に下火になり、2月11日の意見書締切り日までに一件の意見提出もなく事業は軌道にのった。

新酒田建設へ

■山形県酒田火災復興建設事務所
体制づくり
大火直後の11月18日、酒田市臨時市議会は、大火復興の区画整理事業を、「事業内容が膨大で、緊急を要し、財政面で酒田市の能力を越えるものがある」という主な理由で、県による施行の要望書を満場一致で可決した。
山形県ではその要望を受け入れ、12月1日酒田火災復興建設事務所を中央公民館に開設した。
吹雪の中で整地作業
最も急を要する仕事は用地買収であり、正確な道路計画の測量であった。52年1月2日、吹雪の中で現地測量が開始され、道路センターの杭うちは着実に実施された。
整地作業には市民の同意書を必要としたが、説明会場ではまだ理解がうすく、予期した同意がえられなかった。そこで復興速報で協力を強く市民に訴えた。2月30日の同速報に市民の要望を盛り込んだ具体的設計概要を示した頃には、同意書は90%を超すようになった。
2月23日、吹雪の舞う被災地で、修ばつ式が行われ、「燃えない町づくり」の第一歩が、丘陵地の切り下げ、低地の盛土等を組み合わせた整地工事によって本格的に始動した。

公用地(道路・公園)のための個人の土地提供(減歩)と買収の推移
この事業を成功させるには多くの課題があったが、罹災者の減歩を13%に抑えることが是非必要であった。被災地の用地買収は事業遂行の鍵を握るものであり、各部より臨時編成された約20名の用地班は、市開発公社を中心として16,400平方メートルの用地買収を12月中旬に完了という目標に向かって土地提供者を訪れた。
市は酒田税務署と緊密な連絡をとりながら、市に土地を売却する場合は租税特別措置法によって3千万円の特別控除が受けられ、代替地提供者も1千5百万円の控除があるので、罹災者の足元を見透かすブローカーには用心するよう協力を求めた。また、買収単価も不動産鑑定士による正常価格の鑑定を参考にし、市の土地評価委員会で適正な価格を算定して市民の理解につとめた結果、12月中旬に入り目標の60%を確保することができた。
しかし、一つの不安が持ち上がった。買収の同意を得た地域が、一番町、新井田町に片寄っていることである。全地域平均して買収できないと、換地上のアンバランスが生じ、地区毎の減歩が大きく変化する恐れが生ずるので商業地域の方に土地提供を再度強く要望したが、商店街の一等地を手離す人は極めて少なかった。市は最後の呼びかけとして愛宕神社、天満宮、その他多くの社寺用地、駐車場用地等の所有者の協力を求めた結果、大口の提供者もあり、16,000平方メートルの目標達成の目途がついた。
用地買収も最終的には、目標を大きく上回り、24,000平方メートルに近づいた。当初9億と予定された用買費も減価補償金充当分が約19,000平方メートルで12億3千万円、その他酒田市が公益施設、過少宅地の減歩緩和予定地、消防施設用地、その他公共的用地として確保したものが約5,700平方メートル、4億円となり、減歩率を12.4%までに引き下げられるようになってきた。
なお、地元土地区画整理組合連合会からは8組合で27宅地の提供があり、うち34宅地約15,000平方メートルが罹災者の希望する宅地となった。

■仮換地の指定<復興土地区画整理事業>
審議委員の選挙
土地区画整理審議会の目的は、土地区画整理事業を民主的に、また権利者の意見を直接反映するために設置される施工者(山形県)の補助機関である。
審議会委員は、土地の権利に関して直接罹災者の利益に関係するので、公正中立の判断のできる人、また総合的な調整のできる人が望まれ、10名の委員中2名は学識経験者の中から山形県知事が任命し、残りの8名を選挙によって選ぶことになった。
1月13日、選挙人名簿が確定し土地所有者1001人、借地権者5人の計1006人となり、委員定数は前者が7人、後者が1人と決定した。
借地権者の立候補者は1人で無投票、土地所有者は2人の定員オーバーで2月13日復興事務所で選挙が行われ翌14日当選人が公告通知された。
仮換地原案の発表
審議会の審議をへて、仮換地原案の図面が3月4日、住宅街の新井田町から供覧された。宅地の全部が道路に面するように整然と区画され、宅地位置、面積、減歩率が一目でわかるようになっていた。以来3月7日までに各地区の供覧が実施され地権者847名に新しい宅地が原案として示された。
原案に対する意見を文書で求めたところ280件(全体の30%)が出され、大きな波乱を呼んだ。よって修正可能なものは極力修正する方針で作業が進められた。
表に示すように、地権者、審議委員、復興建設事務所一体となって、懸命な修正努力が続けられた。

仮換地原案に対する意見
意見・要望項目 原案(3月1日) 第1回修正案
(3月25日)
第2回修正案
(4月19日)
第3回修正案
(6月9日)
  件数 件数 件数 件数
間口が狭い 84 30 29 23.8 6 35.3 2 28.6
市有地の調整地が欲しい 67 23.9 32 26.2 1 5.9 1 14.3
位置が悪い 61 21.8 27 22.2 1 5.9 3 42.8
減歩率が高くて不公平 18 6.4 6 4.9 1 5.9 1 14.3
モールだけに面して不便 11 4 6 5 3 17.6
他の土地と交換して欲しい 11 4 6 4.9 1 5.9
集合換地を望む 10 3.5 4 3.3
その他工事等の要望 10 3.5 10 8.1
土地の形状が悪い 8 2.9 2 1.6 1 5.9
焼け残った建物の保全         3 17.6
計(A) 280 100 122 100 17 100 7 100
全権利者に対する割合
(A) / (B)
  27.8   12.1   1.7   0.7

(B)全権利者数1,006名

仮換地の指定
6月9日に開かれた第8回審議会で「第1回仮換地」を慎重な討議のうえ、全員一致で了承した。県ではこれを受け、6月10日付で各戸毎に指定通知を発送し、2週間後に仮換地の指定と、土地を使用して住宅を建てる「使用収益の開始」を同時に発効させた。
6月10日の第1回指定からはじまった仮換地の指定は、8月31日の第4回目ですべて終了した。この間6回(通算14回)の土地区画整理審議会が開催され、一筆ごとの指定の可否、仮換地の調整などについて、罹災者と関係市民の代表としての立場から、徹底的な審議が行われたが多数決による決定は一度もなく、すべて全会一致による審議会の意見が県知事に答申された。
このように幾多の問題はあったものの、大火直後の12月1日開所以来、わずか8か月にして、復興の最大難関を突破できた。二度と大火の惨事をくりかえさないという、市民の防災都市づくりの熱意によるものであった。

住宅街の復興

激甚災害の指定により、住宅金融公庫の融資額が、耐火構造で660万、木造で580万と決められ有利な条件であるが、返済の困難を考え県と市が協力し、被災住宅の復興促進と被災者の負担軽減を図るため、災害認定交付者(847名)を対象に、大幅な利子補給をすることになった。
商店は150平方メートル、住宅は120平方メートルを限度とし、利子補給対象額の限度は、耐火構造で400万、木造で180万とし、利子補給率は2.9%を5年間続けることになった。この所要額は約4億円となり、県が4分の3、市が4分の1を負担することになった。
建築申請が出されると1戸当たり宅地平均面積が約215平方メートルの土地だけに、隣家との空間が少なく、日照通風に問題が残りそうで、市は8月26日に「住宅建設は隣近所相談して……」と題する復興速報(No.26)を新聞折り込みで配った。その中で建築確認の申請書類から判断すると各街区ともに隣家の情況がわからないままに間取りを計画しているようで、住宅完成後、

  1. 玄関または座敷の窓の正面に隣家の便所の窓や、くみ取り口が面して不便(水洗化は60%程度)
  2. 寝室のわきが駐車場で安眠できない
  3. 隣家の窓と窓がつき合わせることになり、どちらかに目かくしが必要
  4. 隣家の換気の位置に座敷の窓が面し、におい、不快音がくる
  5. 通用口として計画した道路が隣家の座敷、寝室などに面し、目かくしのため高いへいが必要

などが予想され、それを避けるためにお互いに隣同士で、どんな間取りでいつ建てるのか十分検討を重ね、あとで問題を起こさない住宅、商店を建設し、更に共同で街づくりをするという積極的な協力を住民に呼びかけた。その具体的な方法として、確認申請の出された間取りを次々と市の方で街区毎に図面に明示し、誰にでも公開し、あとで建設する施主と設計者の設計計画、隣家との調整に利用してもらうことにした。

商店街の再編と復興

■酒田市復興対策事務所の開設
市内の繁華街であるばかりでなく酒田、飽海地区商店街の中心として栄えてきた商店街が一夜にして灰燼と化したため、商店街の復興が酒田市復興の成否のカギとなった。市では、この商店街の復興を主体に、復興対策事務所を開設し、復興のための相談と指導にあたった。
まず復興資金の導入には金利、償還などあらゆる点から有利な、近代化事業の制度を利用することにした。この条件を満たすために、既存の7つの商業組合を、中通り、たくみ通り、大通りの各商店街振興組合に再編強化して商店街近代化推進協議会をつくり、約250人の組織化が完了した。
一方、中町中和会の四街区、五街区の面積約1.2ヘクタールのところを市街地再開発を行なって、土地の高度利用を図ることになった。52年4月21日に準備組合が発足し、商業活動の核となる大型店を配置して、周辺の商業活動を活発にしようという目的である。この試みは全国でも二番目の誕生である。

商店街の再編状況
旧商店会名 組織強化 復興事業名
(協)中町中和会 市街地第一再開発準備組合 市街地再開発事業
(協)大工町商耕会
(協)桶屋町商進会
(協)鍛冶町商和会
中通り商店街振興組合 商店街近代化事業
(協)上内匠町商興会
(協)中央通り協栄会
たくみ通り商店街振興組合 商店街近代化事業
下内匠町商店街(振)
浜町商店街(振)
大通り商店街振興組合 商店街近代化事業

セットバックとショッピングモール
防火建築と魅力ある商店街づくりの矛盾点にアーケードがあった。風雨の激しい酒田では、どうしてもアーケードが必要であるが今大火の経験から不許可になった。
そこで、それに代わるものとしてセットバック方式が論議された。セットバックというのは、通りの店舗がいっせいに一階の一部分を引っ込めて建築するものである。つまり、引っ込んだ部分だけ二階以上が屋根がわりになってアーケードの役割を果たすわけだが、商店にとって最高の売場面積である一階売場の減少は深刻だった。また一方では、お客さんが雨や雪にわずらわされることなく快適なショッピングができる商店街をつくらねばならぬこと、一軒や二軒の問題ではなく、ひとつの商店街、通りの両側全部の商店の問題だけに議論が沸騰した。
結果的には全員の賛成をえて、中通り商店街は市道から1.5メートル引っ込め、ひさしを1.5メートル市道に出す(3メートルの歩道)ことになった。そしてその外側に2メートルの緑地帯、次いで5メートルの道路がある全国に例を見ない酒田独特のショッピングモールが完成した。

商店街近代化事業による資金の導入
商店街近代化事業は長期、低利の高度化資金を借りるわけで、各商店の計画と商店街の計画が近代化事業といえるものでなければならない。
まず建物を単独で建てるか、共同建築にするかが決められた。土地の有効利用から共同建築は確実に売場面積が増え、建築費も安くなる利点などで11店で1棟というような共同建築がその主流をしめた。
建物の規模が決まり、その見積書ができると過去3か年の売上実績と今後5か年の販売計画をたて、資金計画、返済計画をつくり、組合ごとに集計して県に計画書を出すのだが各所からの手伝いなど計12人で3つの商店街振興組合の近代化事業に取り組んだのが8月中旬からだった。それを県の経営指導課、商工課が経営診断を行ない、さらに国の診断をへて適切であれば融資することになる。
いよいよ県の診断が中通りは10月3日から8日まで、たくみ通りが17日から22日まで、大通りが11月21日から26日までに終わり、ついで国の診断が中通りは11月14日から19日まで、たくみ通りが12月5日から10日まで、大通りは翌年の1月23日から27日までに行われついに融資が決定し、開店の運びとなった。

商店街復興計画 事業計画書集計:店舗面積()内は純売場面積 単位:平方メートル
  焼失前(51年) 近代化後(56年)
中通り 14039.15(6930.00) 15275.19(8611.00)
たくみ通り 10777.59(6581.70) 13178.79(6673.90)
大通り 11446.00(6732.00) 13438.00(8761.00)
36262.74(20243.70) 41891.98(24045.90)

山形県知事の認可を受けた事業計画書の集計である。()内は高度化利用

商店街復興計画 事業計画書集計:売上高 単位:千円
  焼失前(51年) 近代化後(56年)
中通り 5,358,904 9,585,554
たくみ通り 2,852,063 4,811,151
大通り 4,064,451 7,527,477
12,275,418 21,924,182

山形県知事の認可を受けた事業計画書の集計である。

■市街地再開発事業
近代化事業と共に、土地の高度利用、建物の共同化、公共的施設の整備を目的とする市街地再開発事業は、既にマスタープランによって位置づけられた大型店舗の配置に従って、具体的に始動したのは52年の春である。マスタープランでは駅前地区の回遊性を高めるため、大型店舗は27街区(浜町通り、旧山王堂町付近)と5街区(旧上中町大沼デパート付近)に位置づけされていた。
5街区の中町地区は清水屋デパートの進出が決定することによって、52年8月18日、第一種市街地再開発事業(民間による再開発)の認可を申請し、直ちに権利変換の具体的な取り決めに入り、キーテナントである清水屋と建設協力金、賃貸料のめどを確認しながら設計を進め12月に着工した。この大型店舗は「酒田セントラルビル」として、延面積で2万平方メートル、33億円を投じて53年10月竣工し、中町商店街の核としてその偉容を示している。
この5街区の北側にあたる4街区は5ブロックに細分化し、そのうち3ブロックが再開発事業として出発した。第1第2工区は11月、ホテルを持つ東地区は54年3月竣工した。南の6街区では、ショッピングと立体駐車場(325台収容)を主体とする延約1万2千平方メートルのビルは12月にオープンした。一方、32m道路沿いの27街区付近に進出予定の大沼デパートは、地権者の反対で建設を断念して、31街区(本間家旧本邸東側付近)に進出を希望したが、ここも地権者との合意が得られず中止となった。
このように幾多の困難をのりこえて、55年の春、残っていた柳小路の道路の整備と、立体駐車場ビルの一部(バス停留所)もとどこおりなく完了した。

■大幅な利子補給
各種事業が罹災者の要望を最大限に受け入れながら相互調整され、早期に完了させねばならぬ状況下で、建築物の整備は、土地の換地作業よりも複雑で困難であった。全ての財産を失った罹災者には何の資力もないのである。激甚災害の指定によって住宅金融公庫の融資額が(その後52年9月に改訂され耐火構造で660万、木造で580万に増額された)極めて有利な条件の政府融資はあるが「借入の道あれど返済の道なし……」が罹災者の偽らざる本音であった。
そこで県と市が協力し、被災住宅の復興促進と罹災者の負担軽減を図るため災害認定の交付を受けた847名を対象にして、大幅な利子補給を実施することになった。
その例を示すと、
標準建設費 - 公庫融資額 - 自己資金 = 不足額
12,720(A) - 6,100 - (A×20%) ≒ 4,000千円(対象額)

となる。商店は150平方メートル、住宅は120平方メートルを限度とし、利子補給対象額の限度は鉄筋で400万、木構造で180万とし、利子補給率は2.9%を5年間続けることになった。この所要額は約4億円となったが、県が4分の3、市が4分の1を負担する。

■固定資産税の軽減
新しい建物に対する固定資産税の軽減が、復興自治協議会より強く要望され、復興促進と罹災者の生活安定のため市は52年12月市税の改正を実施し、51年10月から55年1月1日までに取得する家屋の固定資産税を大幅に軽減することになった。その内容は、一般家屋で初年度は全額、二年度目は3分の2、三年目は2分の1にそれぞれ減免した。

■共同店舗の誕生
共同店舗づくりの計画についても、被災直後から真剣な論議を重ねたが、仮換地との関連もあって、その実現は極めて至難であった。数人のグループで計画をたててはみたが、その中には共同店舗づくりに不安を抱く人もあって、まとまりがつかず、気のあった人だけの仮換地を、一定の位置にまとめて欲しいとの要望もあったが、現地照応を基本とする仮換地の性格上、かなり難しい調整作業となった。
このような中で、被災直後から35名の地権者で進められた旧大工町の町づくりは、底知れぬ苦難の道を歩みながらも、不屈の努力とお互いの協調によって生み出された共同店舗計画であった。
この計画をバックアップしたのが、地元出身の中央設計グループと、酒田復興に何かを残したいと意欲を燃やした地元建設業界の有志である。三者一体で進められた計画の中味は、共同店舗による土地の高度利用、売場面積の有効活用、共通の駐車の確保、建物コストの軽減等、新しい共同店舗づくりに対していくつかの利点を持つものであった。しかしプレハブ化による量産体制にはいるには、少なくとも100戸程度の集団化が前提であったし、各店舗の間取り、階高等、少なからず制約を受ける面もあった。長い間、寝食を忘れて地権者の調整は進められた。それも決して強制ではなく、できることだけを一歩一歩積みあげ方式の話し合いの中から前進を続けた。
結果的には24戸の地権者が合意し、その工法もユニットからP・C(柱、梁、床、壁等を高質で高精度のコンクリートで、部品を各戸の間口や奥行きに合わせて工場で製作し、これを現地に運んで組み立てる方法)工法に切替え、53年の春にスタートした。それ以来突貫工事の連続によって、ようやくこの年の歳末商戦に、店舗部分の竣工をみることができた。
大工町の地権者が、防災都市づくりに燃やした努力は高く評価され、行政も又、立派な一つの高層ビルよりも、町全体としての繁栄を期待される町づくりを強く推進した結果、ユニークなデザインと名前を持つ「たくみながや」等、16棟、51戸の共同店舗が完成し、再開発事業による共同ビルも含めると、全商店延面積の60%以上共同化されたことになる。

■3倍に増えた駐車場
酒田大火によって焼失した22.5ヘクタールの区域のうち、その大半は商業中心地であった。焼失区域内に現存していた駐車場は、48ヶ所で773台の収容であるが、有料分は638台でその内訳は時間駐車が371台、月決めが267台となっていた。
大火復興の基本計画によれば、本市の車保有台数は1世帯当たり1.13台で県下ではトップクラスにあり、今後益々の車の増大を見込み、魅力ある商店街を再建するためには、少なくとも800~1,000台の客用駐車場の設置が強く要望された。これは被災前の約3倍の数字である。
54年6月末における被災地の駐車台数は、総数で2,000台を確保している。その中味を分析してみると、常時来客用として開放されているものが、有料・無料を含めて963台で、そのうち月決めが115台であるが、これは商店主が他の駐車場の持ち主と月決め契約し、客用に開放しているものである。次に多いのが一般の月決めで726台。これは被災地周辺の職場に通勤する人達と営業上の必要性から各商店が固定化して利用しているものである。このほか従業員用が133台、自家用のみの利用として227台の確保が注目される。
駐車場の設置は、当初かなり困難視されたが、当分の間建築の計画を持たない地権者が、空地の暫定利用として駐車場に整備したこともあり予想を上回る数となった。
しかし、有料駐車場の回転率と売上げは計画を下回っているものもあり、周辺道路の全面完成を期に、駐車場の案内表示を設置するなど、友好的な利用が要望される。

記録写真集

■大火前後の記録写真
大火の約1か月前、偶然にも火災現場の航空写真が撮影されていました。
これだけの面積が一夜にして消失してしまいました。

■燃え盛る炎
懸命な消火活動。しかし、いかんせん多勢に無勢であった。

■炎の爪跡

お問い合わせ

総務部危機管理課地域防災係
〒998-8540
酒田市本町二丁目2-45
電話:0234-43-8706 ファックス:0234-26-3688

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