更新日:2016年10月1日
まずは、右の図を見てください。これは、お米の「家系図」です。つまり、今の有名な品種の血筋を表したものです。
今、日本で作られ、売られているお米の種類は、約300種類もあります。これだけたくさんの品種が誕生したのは、違う品種をかけ合わせる「品種改良」によって、常に新しいお米が研究・開発されてきた結果なのです。
今、おいしいといわれているお米には「ササニシキ」「コシヒカリ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」「はえぬき」など、いろいろな品種があります。黄色で囲まれた品種です。
これらの品種の血筋をたどっていくと、その先祖には「亀の尾」と「森多早生」という品種にいきあたることがわかります。
実は、この赤色で囲まれた品種は、山形県の庄内平野で米作りをしていた農家の人が創り出したものなのです。「陸羽132号」に伝えられた「亀の尾」の血は、さらに「農林1号」に伝わり、子どもの「コシヒカリ」まで伝えられました。また、「亀の尾」と「旭」から「東北24号」が開発され、さらに「ササシグレ」へと伝わり、その子どもの「ササニシキ」へと伝えられました。
「森多早生」の血も、「農林1号」から「コシヒカリ」へと伝わっています。
このように、庄内平野で、農家の人が一生けんめいに創り出した「亀の尾」や「森多早生」が今の有名な品種の先祖なのです。もし、「亀の尾」や「森多早生」などがなかったら、今の「コシヒカリ」も「ササニシキ」も生まれなかったのです。
明治のころまでのお米の品種改良は、全国各地で、農家の人の手で行われてきました。しかし、明治37年に、国立の農業試験場で、人工的なかけ合わせによる品種改良が始まってからは、しだいに農家の人の手からは離れていきました。
しかし、それでもなお、明治から昭和30年ころにかけて、多くの農家の人が、品種改良を行い、数多くの新品種が誕生し、その新品種が広く作られた地方が、全国でただ一つあります。それが、山形県の庄内地方なのです。
庄内平野は米どころとして知られていますが、昔から米を「作る」だけでなく「創る」ことも盛んだったのです。
山形県で、明治から昭和30年までに、農家で作られた面積が1万ヘクタールをこえた品種が9品種あるのですが、このうち7つが、庄内平野の農家の人が「創った」品種だったのです。また、4千ヘクタールから1万ヘクタールまでに広がった品種は、14品種ありました。この中でも、14のうち8つが、庄内平野の農家の人が「創った」品種でした。
さらに、これらの品種は、山形県にとどまらず、東北地方の各県、特にとなりの宮城県においても、昭和初期に作られた品種のほとんどは、庄内平野の農家の人が創り出した品種だったのです。